木々も色づき始めて、秋らしさが日に日に増してきました。
かかしが守ってくれた水景園の稲は、9月のつちのこ隊というイベントで刈り取りを終えました。
先日まで稲架がけをしていましたが、脱穀を終えてこれから「わらじんど」ができていきます。
稲架がけ(ハザガケ)
天日干しにすることでお米の水分を飛ばし腐ったりしないようにするのだとか。
乾燥器が発達して稲架がけを見る機会は減ったそうです。
「わらじんど」とわら小屋
写真は何年か前のものです。わら束を何束か組みあげたものが「わらじんど」。この地域ではこう呼ぶと聞きましたが、はっきりしたことはわかりません。わらの屋外保管方法だそうで、地域によって、稲むら、わらぼっちなど多様な呼び方があり、形も大きさも様々だそうです。
一年の田んぼのサイクルには急激な景色の変化が何回かあります。遠目にも分かる変化は、耕転・田植え・刈り取りではないでしょうか。
田んぼの作業は見ている分には面白いですが、実際やると大変なものです。
現代では機械化が進んで便利になっていますが、昔の人達の苦労が偲ばれます。
田んぼにまつわる昔話はたくさんありますが、特に収穫に関しては、稲刈りの大変さや実りの良し悪し、そして年貢の徴収と、悲喜こもごもの要素があり、バリエーションも豊かです。
今日はそんな数々の話の中から老夫婦のやさしさと神仏の不思議な力、そして稲刈りの大変さが組み合わさったお話をご紹介します。
※記憶に頼った記述のため、内容は不正確です。ご了承ください。
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昔々下野国(今の栃木県)におじいさんとおばあさんが暮らしていました。
二人は大変信心深く、朝夕欠かさず田畑への行き帰りに道端の大黒様に手を合わせていました。
大黒様…ではありません
水景園のどこかにいる石のアート作品「ガリレオの子孫たち」の一体。
小さい石像なだけで拝む対象な気がしてしまいます。
稲が実るころ、夜に嵐がきました。二人は大黒様の小さな祠が心配でした。
翌朝見に行くと、やはり祠はなくなっていて、大黒様は田んぼの中まで飛ばされていました。
二人は大黒様をひとまず自分たちの家に安置することにしました。
そして、二人はまた同じようなことが起こってはいけないとあれこれ悩んだ末に、山の中腹の大きな岩をくりぬいて新しい祠をつくることにしました。
翌日から、おじいさんはノミで岩を削り、おばあさんは出た石の破片をかごに入れて運びました。
年老いた二人には大変な作業でしたが、二人は一生懸命に祠をつくり、秋の終わりごろ、ようやく完成しました。
そして重たい大黒様を祠まで運び、やっと安全な祠に大黒様を納めることができたのでした。
しかし祠を作り終えて疲れが出たのか、二人とも腰の痛みで寝込んでしまいました。
冬も近いというのに、村の中で二人の田んぼだけが刈り取りを済ませていないまま残っていました。
大黒様の祠から一匹の白いねずみが走り出ると、二人の田んぼから一本のイネをかじりとり、咥えて山の中へと走っていきました。
白ねずみは大黒様のお使いと言われています。
そのころ、日光の山々を開くお坊様がおられました。山奥で暮らしていたお坊様は稲穂を咥えた白ねずみに出会います。「この時期に稲穂とは…。なにやらわしに伝えたいことがあるのか。」
不思議に思ったお坊様は白ねずみの足に赤い糸をつけ、その後を追っていきました。
白ネズミはすばしっこかったのですが、お坊様は遅れることなく山を駆け抜けました。
白ねずみについて里へと出たお坊様は、一枚だけ刈り取りの済んでいないおじいさんとおばあさんの田んぼを見つけます。
そしてさらに白ねずみを追いかけ、二人の家へとたどり着きました。
お坊様は寝込んだ二人のために薬をつくり、さらに稲刈りに出かけました。
稲は茎がもうすっかり硬くなっていましたが、お坊様はものともせずガリガリと一刻ほどで刈り取りを済ませてしまいました。
「薬と米さえあれば二人とも大丈夫じゃろう」
そういうとお坊様は帰って行ってしまいました。
このお坊様は日光開山の祖である上人様だったといわれています。
そしてこの土地は白ねずみの足に糸をつけたことから、「あしお」と呼ばれるようになったそうです。
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実り具合から刈り頃があるとは思っていましたが、刈り頃を逃すと茎の硬さで作業が大変になるということは考えたことがありませんでした。
寝込んでいる二人はさぞ焦ったことでしょうが、救世主のように登場するパワフルなお坊様が格好良い話でした。
公園の稲はつちのこ隊の参加者の皆様と、地域のパワフルな農家の方々に助けていただいて「米」になっていきます。
脱穀後の籾
私たちが目にする白米になるまで、たくさんの工程があります。