★けいはんなの歴史
公園のあるけいはんな地区は、その名のとおり「京(京都)」「阪(大阪)」「奈(奈良)」の3つの府県にまたがっています。都を擁した京都・奈良、天下の台所として繁栄した大阪。古代からの都市圏と密接にかかわるこの地区は、時代の流れに合わせ、歴史の舞台にたびたびその名を登場させています。
これは「けいはんな風土記」という本をベースに、古代~奈良時代にかけてのけいはんな地区のできごとを抜粋した記事です。有史以来のこの地域の変遷を、こうして時々取り上げたいと思います。
★古代のけいはんな
木津川流域に人が住み始めたのは数万年前。当初の居住域は河川の流域のみでしたが、稲作の伝播とともに、徐々に丘陵地にも人が住み始めます(紀元前3~2世紀頃)。紀元後には、村をまとめて支配する人が出て、古墳ができはじめます(3~4世紀頃)。勢力は徐々に拡大し、のちに大阪府の樟葉(くずは)や奈良盆地の勢力(大和王朝)間でたびたび争いを繰り広げます。そのうちのひとつが以下のお話です。
★祝園(ほうその)の地名
公園の最寄り駅は、JR「祝園」または近鉄の「新祝園」。祝う園、と書いて「ほうその」と読みます。変わった地名だと思われませんか。この地名の由来は、日本書記にまでさかのぼります。
88年(実際は4世紀末ごろとも言われる)に「武埴安彦(たけはにやすひこ)」という豪族が、当時の大和王朝(崇神天皇)に対して戦いを挑みました。安彦が拠点としていたのは、現在の大阪府の樟葉の辺りといわれています。政権側は、和珥(わに)氏の祖である彦国茸(ひこくにぶく)の軍で迎え撃ち、安彦の軍を撃退します。敗走する安彦軍は、祝園の地で多くの兵を失いました。
武埴安彦、先づ彦国茸を射るに、中つること得ず。後に彦国茸、埴安彦を射つ。胸に中てて殺しつ。其の軍衆脅えて退ぐ。則ち追ひて河の北に破りつ。而して首を斬ること半に過ぎたり。屍骨多に溢れたり。故、其の処を号けて、羽振はふり苑と曰ふ。 (『日本書紀』崇神紀10年9月27日)
(下線訳)首を斬り落とされた兵の数は半数を越え、死骸が満ちあふれた。そこを名付けて羽振苑(はふりのその・放りの園・祝園・ほうその)という。(訳:けいはんな風土記)
日本書記は政権側から書かれた書物であり、謀反を起こした豪族にまつわる地名は、あまり良い印象のものではありません。安彦の拠点・樟葉(枚方市樟葉)は、追いつめられた敗走軍の兵士が、恐怖のあまり漏らして袴を汚してしまったために「クソバカマ」→「クズハ」と名付けられたと書かれています。
それだけ、この地域にはドラマがあったのですね。
★祝園神社と「ははその森」
前出の安彦や敗軍の亡霊はこの祝園の地にとどまり、人々を悩ませていました。これを鎮めるため、奈良時代に春日大明神を勧請(神仏の分身を他の地に移すこと)して造られたのが、精華町祝園にある祝園神社だといわれています。
「はふる」には「屠る」のほか、「放る」や「葬る」「祝る」(罪やけがれを放(はふ)り清める)の字をあてる事もあります。清濁が混在する単語ですが、「基点とする場所から離れる、または離れさせる」という意味を持ち、語源を同じくすると考えられるようです(出典:精選版 日本国語大辞典)。
お正月には、鎮魂と五穀豊穣を願う「居籠祭(いごもりさい)」という1250年続く神事が行われており、府の指定無形文化財に登録されています。屠られた安彦軍の面影は、今もこの地に色濃く残っています。
また、祝園神社の森は「柞(ははそ)の森」と呼ばれ、のちに紅葉の名所として和歌や紀行文学などにも登場します。「柞(ははそ)」はケヤキ、コナラ、クヌギ等、落葉広葉樹の総称であり、晩秋、濃淡さまざまに色づきます。
(柞をよみ侍りける) 藤原定家
時わかぬ 浪さへ色にいづみ川 ははその森に 嵐吹くらし (『新古今集』)
(訳)ははその森に嵐が吹くらしい。紅葉が泉川に散り込み、時節とかかわりのない川波までが、秋の色に染まっている(訳:けいはんな風土記)
「いづみ川」は木津川の古称です。平安時代、藤原氏の恒例行事となったのが春日詣(かすがもうで・春日大社への参詣)で、精華町はそのコースのひとつでした。けいはんな記念公園にもコナラやクヌギを主体とした森があり、12月初旬に全体が美しく色づきます。森を散策しながら、この地の「ははそ」の背景に思いを馳せるのも一興ですね。
平安以後のこの地域のお話は、またの機会に出来ればと思います。