現在、ギャラリーおよび水景園各所にアート作品の展示を行っています。
京都芸術大学との共催企画『ARTCOM』は、毎年今くらいの時季に開催しています。総合造形コースの選択授業として取り組まれていて、公共の場に作品を展示し、アート表現を行うものです。
それぞれのアートを何かのジャンルにくくる必要はなく、単に「この作品は何を語り、何を表現しているのか」と考えることが面白さだと思いますが、ARTCOMに出品される作品の大半は、あえて言えば現代アートなのだろうと思います。見る者に問いかけを与えたり、現代ならではの情勢や事象から問題提起をしたり、その思考を形にしたものを、世の中では「現代アート」と言います。この現代アートでは、美しいものだけがアートではありません。
「作品を起点として鑑賞者が思考をめぐらし、そして鑑賞者の中で完成される」と言ったマルセル・デュシャンは、小便器を『泉』という作品として発表しました。この頃から、現代アートは目で見て楽しむものから、考えて楽しむもの、つまり作家と鑑賞者の謎解きのようなものとして、新しい世界が切り開かれました。
ということは、正解は“あってないようなもの”、とも解釈できます。もし制作者の意図とは違う捉え方をしたとしても、作品と対話して何か考え、感じることができたら解釈は鑑賞者に委ねられている、ということではないかと思うのです。そう考えると、ちょっと理解が難しい感じがする現代アートも、少し近くに感じることができるのではないでしょうか。作者の思いに近づくために、作品情報を読み、作品と語りあって考えることは、作品の向こう側にいる作者の姿を垣間見ることでもあり、より楽しみが増します。
今回は、制作時に考えらえた学生のみなさんのコンセプトと、ギャラリーで配布している作品紹介をふまえて作品を鑑賞し、独自視点で興味深く拝見した展示作品をいくつかご紹介します。
(数字は作品番号、作者名は学生さんのお名前のため、割愛して紹介します。青字は作品紹介やコンセプトから引用)
3.『キマグレ』
鉄でできた紫陽花が表すのは、
「空がキマグレに形を変えるように、紫陽花が色を変える姿、そして人が表情を変える様は心があるみたいな花」。
そして紫陽花が土壌のpHによって色が変わる様子=環境による変化 を表現するために、素材である鉄の加工に、金属の焼き入れ・焼き戻しの温度により色が変わるテンパーカラーの特性を用いています。ここに鉄製である意味が存在するんだな、と思いました。何とも言えない艶めいた鉄の色あいは、確かに紫陽花の移ろう色を思わせます。「色が変わる」という点に着目し、それに意味を持たせて素材そのものから出来上がったものまでを「変化」で繋いでいて、作品の背景を知るとより素敵に感じます。
16.『その日を思う』
鉄のつぶでできた胸像です。
一旦塑像で原型を作って、番線でその原型を形取り、溶接で点を打っていく、という工法だそうです。
「まわりの存在があることで 私というのは成り立っているのでは」
「人という形は周りの環境と互いに影響しあう」
“人”と“環境”が不可分である、というところから作られた作品。あえて全面を鉄粒で埋め尽くさず、向こうにある空間・環境を見せることで「虚と実」を対比で見せているそうです。微妙な空間は、このあと胸像の隙間が鉄粒で埋まっていくのか、隙間が増えていくのか・・・と時間経過を連想させます。自分と周囲の関わりや拠り所のようなものを探るイメージなのだろうか、と思って拝見しました。
9.『陽炎』
「意味を持たない形からよく知ったものを思い浮かべる。人間の視覚は曖昧でおもしろい」
「明確な形は分からないものの見える部分と揺らめきから何かいるような様子を表現」
不完全な形や本来存在しないものを既知のものに当てはめて形を想像してしまう視覚現象“パレイドリア効果”を狙い、何かに見えそうな見えなさそうな、を形作られたそうです。
タイトルの「陽炎」は“かげろう”と読むのか“ようえん”と読むのかお聞きしていませんが、いずれも日射により地面から炎のような揺らめきが立ちのぼる現象を表します。これもまた実態を「形」としてつかめないものです。皆さんは作品が何に見えるでしょうか・・・。
この角度なら、手を繋いで歩く親子にも見えますが、近づいて上からや横から見るとまた違います。もはや、陽炎かどうかより、パレイドリア効果で何をそこに見るか、のほうに面白さを感じてしまいます。
(※パレイドリア効果:野菜の切り口が顔に見えたり、空の雲が鳥や動物に見えたり、地図でイタリアがブーツに見えたり、といった、そのものとは異なる物体から別のものを思い浮かべる一種の錯覚)
24.『硯滴鉢』『石蟹の群れ』
2つの作品として展示されているけれど、コンセプトを拝読する限りでは特にそれぞれ関連するストーリーや着眼点があるとは書かれていません。
「釉薬を入れて乳濁した模様を内側に表現した」という硯滴鉢、
「自然の中にいるような石に擬態する蟹を群で制作した」石蟹の群れ。
ただ、見る側は自由に連想するためか、色々と仕掛けがあるように思われてなりません。硯滴鉢の横にそっと置かれた1つの石蟹、水上舞台のキャプション横に添えられた石蟹、そしてどこに群れているのかと探しに探すと対岸の石に並ぶ蟹と、その進化をたどっているような不思議な形をしたものたち・・・。大きな鉢にいた石蟹が、ひとつ二つと自然へと還っていき、水景棚の石の上に居場所を見つけた、とでもいうような・・・。
見ていて物語が浮かぶというのは楽しいものです。作り手はどんな意図でこの配置にしているのかな、と考えると同時に、自由に想像を巡らします。独自解釈をしてしまう鑑賞者は作家泣かせかもしれませんが、これも作品が作家の手を離れ、独り立ちした面白さなのでは、とも思います。
31.『眼圧』
まず、作品の近くに行く前に、永谷池デッキから作品の方向をご覧ください。遠くで何かがこちらを見ています。
「現代社会では人と目線を合わしたり、人に目を向けたりする行為が少なくなっている」
「発表会など、大勢から向けられる視線の圧迫感が苦手で、人と目線を合わすこと、人に目を向けることも苦手になった」
ということから、目線による圧、目線から感じるものを表現されたそうです。
確かに視線や目線はその人の姿より先に感知してしまう、ということがありますよね。
作家さんにとっての「視線」を想像しながら作品を見てみました。あえてキャプションを離れた場所に置いたり、こちらに向いている斜面に設置したりと「遠くから・思わぬところから 感じる視線」を表現されているのかな、と思います。近寄ると作品表面は布製なのに見開く瞳の強さや鋭さが形や色合いで感じられ、苦手とされている「眼圧」の意味を少し解ったような気がしました。「こんなところに目玉?」と思うような場所を選ばれたことにも意味があるんだろうなと色々想像しています。これもまた、制作コンセプトを知ればこその面白さがあります。
19.『大学生と周囲』
「世界とは、自分とその他だと思っていた。しかし世界は自分と自分の周囲が混ざり合い影響しあっているのだと気づいた」
「周囲の風景と人間が映り込む造形物で“環境と形”を表現したい」
確かに、人は成長とともに関わる社会・世界が広くなり、自分を取り巻くものの大きさや多様さを実感していきます。コンセプトから、作品は作家さんご自身でもあるのだろうな、と思いました。同時に、この作品に向き合って、作品に映り込んでいる私自身でもあるのかもしれません。周りの緑に溶け込みそうで、太陽が照ると反射光で周囲とは違うことを主張しているようで、不思議な存在感があります。
きっとその日の天候や作品に立ち寄った人によって、様々なものをこの作品は映し出し、そこに取り込む。その様子こそが、影響しあう関係・形なのだろうと思います。
25.『35000分の1』
「人間は1日3万5千回もの選択をしている。人は自分にとって安心できる道を選ぶことがある。進むことや変化を恐れず、現状に満足したくない、という思いから生まれた作品」
「いつもは無意識にしていた選択を可視化させ意識的にすることで人は自分の今までの選択とこれからの選択に目を向けることができる」
展示の際、「分かれ道に置きたい」と設置場所に迷われていました。この場所と色、観月橋の上からも池の対岸からも良く見えます。
毎日、何をするにも人は選択の連続なのだな、と改めて考えます。作家さんの意図されるような新たな世界や今までにない自分との出会いはありませんが、公園の中だけでもどのルートを選ぶか、どの位置から見るかどの方向に進むか、で、かなりの選択肢があり、その結果違った景色があるな、と思います。
階段を上がって「どっち行く?」と問われているこの状況、「無意識にしていることを可視化」し「意識的に」する、という作家さんのメッセージは確実に見る人に伝わっているし、左右で色が違うことで、違うものに導かれることを暗に意味しているようでもあります。
この作品展は「環境と表現」というテーマがあり、学生の皆様それぞれに、自分の置かれている環境、作品を見せる環境、これからの世の中、等々、様々な視点での環境を捉えて表現されています。制作前の下見から、作品計画、制作、展示と、たくさん悩んで考えて、形にされた作品たちです。
ぜひ、水景園で作品そのものと対面いただき、みなさまの感性で楽しんでいただければと思います。
この【ARTCOM2022】は7/23(土)16:00まで開催しています。