「歴史をふり返る」としたこちらの記事では、「けいはんな風土記」という本をベースに、古代からのけいはんな地区の変遷を振り返っています。
前回は、古代~平安時代までのこの地域のお話をまとめました。

【歴史をふり返る①~けいはんな風土記より~】

精華町祝園地区にある祝園神社は、「柞(ははそ)の森」として、藤原定家の和歌をはじめ、更級日記や、保元物語(保元の乱について記載)など様々な史実や紀行文に登場します。教科書に登場する人物が訪れたという記載は、この地の歴史の深さを感じさせられますね。

「ははそ」とはクヌギやコナラなどの総称。山の紅葉はこのような景色だったでしょうか。

 

★中世のけいはんな地区

今回は、この地区の中世のお話です。
中世のけいはんな地区には、大きな荘園が点在していました。荘園とは、貴族や寺社、有力な地方豪族などが新たに開墾した私有地です。奈良時代頃から土地の私有が認められるようになり、武士の起源は、この荘園を守るために武装した領主たちだったともいわれています。
奈良と京都、二つの都市を結ぶ位置にあるこの辺りでは、藤原家や春日大社などが荘園を保有しており「祝園荘」という大きな荘園もありました。

鎌倉~室町時代とそのように大きな荘園が確立されていたこの地区ですが、室町の末期から戦国時代にかけて、歴史の教科書に載る大きな出来事の舞台となります。「山城国一揆」です。
国一揆とは、地元の小領主や農民が、荘園領主や守護に抵抗し、郡単位の規模で起こした一揆を指します。

南山城地区の田園風景

★一揆の背景
元々、この地区も1467年に始まった応仁の乱の戦火を受けていました。畠山政長と畠山義就の家督争いに端を発したこの乱は、当初京都市内が主な舞台でしたが、長期化とともに戦場は各地に広がり、1470年以降は南山城地区でもたびたび戦が勃発しました。

11年の混乱を経て、応仁の乱は一旦終結しますが、続く畠山氏の家督争いに嫌気の差した南山城地区の住民(今の久世郡・綴喜郡・相楽郡地区)は、1485年12月11日、大集会を開きます。畠山両軍の追い出しや関所の撤廃、土地や年貢の扱いを定めた掟法を作り、交渉の末に12月17日より執行を開始。ついに畠山氏を撤退させる事に成功しました。
住民による自治の開始です。

★自治の行く末
この自治は、約8年間続きます。
しかし世は戦国時代。政権のクーデターや各国守護の様々な思惑を受け、勢力は徐々に分裂します。そして遂に1493年9月、自ら自治を放棄する集会を開き、勢力は解体。新しい守護・伊勢貞陸の支配下に入りました。最後まで抵抗した勢力は、稲屋妻城(精華町)に立て篭もり交戦しましたが、同年12月、ついに陥落し山城国一揆は終焉を迎えました。

稲屋妻城跡は、明確な遺構は残っていませんが、精華町内にいくつかの候補地があります。自治を勝ち取り、最後まで抵抗した勢力はこの精華町で果て、公園から車で10分ほどの北稲妻地区の共同墓地にその痕跡を残しています。

14名の五輪塔と地蔵石仏、これらはまとめて「逆修(げきしゅう)の碑」と呼ばれ、今も地域の住民によって護られています。
※石仏や五輪塔は、後年、天文6年(1537)になってから建てられたものとされています。

世は戦国時代、この地区もまた様々な争いに巻き込まれることとなります。

 

 


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