美しいとは何か。ふとそんなことを考える時があります。
その感覚は人それぞれ、定義はありません。ですが何をもって美しいとするかということは、洋の東西を問わず各時代で論じられてきました。
「美」とは時折、哲学と通ずる部分があるようで古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「善いものはすべて美しく、美しいもので均斉のとれていないものはない」と言ったそうです。また、美しさの法則性を追及すると宇宙論に到達する、という考え方もあります。「宇宙が奏でる調和は美の根源であり、音楽は時間の流れとともに旋律となり人の感情と共鳴する。色彩は空間を彩り、現実世界を情感豊かに描き出す」というものです。このあたりはちょっと壮大すぎて実感が湧かないかもしれません。
ですが「自然は光や色彩をはじめとする様々な現象の中にその原理を隠しており、自然の一部である人間が、それら現象を感得することで自然の心理に近づくことができる」というゲーテの考えには頷くところがありますね。
宇宙はちょっと置いておいて、想像してみましょう。
・桜のようなパステルカラーや明るい色からイメージする音
・深い森や夜の帳が下りた濃紺の空といった空間からイメージする音
・色とりどりの鮮やかな花が咲き乱れるようなヴィヴィッドな景色からイメージする音
これなら多少の違いはあれど、ほかの人とも似たような音やリズムを思い浮かべることができそうです。
色や明るさと音は共通するイメージがあるようですが、このように色を見て音、音を聴いて色というように刺激された感覚以外の特定の感覚が呼び起こされることを「共感覚」といい、スペクトルを発見したニュートンは、音階にヒントを得て太陽光の「虹の7色」を選んだと言われています。実際は光や虹に色の境目はなく、波長の違い・変化で視覚的に違って見える色がグラデーションになっています。グラデーションからどの色味を取り上げるかに音の波長から音階を取るような光の諧調を刻んだのでしょう。
西洋の美術史家も古くからカラーハーモニー(色調和)理論の一つとして、音楽理論をもとに色を表すニュートンの考えを紹介しており、色彩と音楽の共感覚的な関係性は今もなおカラーハーモニーを考える際に科学と芸術の橋渡しとなっています。音階も色の諧調も「美しいもので均斉のとれていないものはない」にあてはまるのでしょう。
均斉のとれたもの、バランスの良いもの・整ったものが、「美しい」のでしょうか。
美術の時間に習った『マンセルの色立体』のマンセルは「心地よいと感じる配色はバランスの結果である」と言っています。確かに、バランスが良いものは大多数が美しい・心地よいと感じます。一方でマンセルは「ある程度のアンバランスな配色は刺激的配色となり、調和配色に変化を与え、全体的なバランスを引き立てる」とも述べています。何がバランスがよくまたアンバランスなのかは、個人の感覚によるところが大きいですが、これは心地よい安定した状態に惹かれるのか、緊張感のある刺激的なものに惹かれるのかといった、好みの域かもしれません。
絵画を構成する重要要素として「第一に光、そして闇、次に色、物体、形、場所、遠近」を挙げて徹底的に研究したのは万能の天才とされるレオナルドダヴィンチですが、西洋のそれとは対比するところで日本の文化や芸術感にもある意味通じる部分があるように思います。
西洋では光が第一と言われるように暗闇は「恐怖」「不吉」のイメージですが、日本では夜桜やお月見、蛍など、仄明かりの中に自然の美を見出し風流として楽しんできました。また、光と闇、灯りと翳は対で存在しており、互いに引き立てあっているという感覚があります。お月見の「月影」という表現がまさにそれです。また、翳から見る自然の陽光や木々のきらめきが薄暗さとの対比で際立つこと、茶室の微かな明かりで見る茶器や棗などの漆器や竹などの自然素材の道具がより美しいことなどを経験的に知っています。自然の中には「陰翳」が創り出す美しさが数々あることを、建築や庭園や美術品に無意識に反映してきたと言えるでしょう。
色あいについても、自然を制し土地を制してきた西洋では、明瞭な秩序、神聖なもののイメージ、本質が際立つ色ということで、赤・青・白のような対比色や反対色が「調和する色・均衡のとれた色」として好まれます。対して日本の場合はこの理論が当てはまらない、という実験結果があります。あるがままの自然を受け入れてきた日本人には、「重ねの色目」のように素材感や自然観を大切にし、うつりゆく自然を崇拝する精神があり、曖昧な変化、消えゆくものに美を感じる感覚が培われてきました。形あるものはいつか壊れる諸行無常の感覚や、不足の中の心の充足感や静寂の中に深遠な豊かさを表す”侘び寂び”といった感覚を「美」とするものです。
美意識とはそれぞれの風土や暮らし、文化の中に蓄積されていくものなのかもしれません。
物事の美醜を仕分けるためではなく、身近なところにある美しいもの・善きものに少しでも多く気付けるように、日々感性を磨いていきたいものです。