先週、新春の開催を終えた華あそびでのいけばな展、今年は「花はいけたら、人になる」のテーマで草月流いけばな教室のみなさんが取り組まれた作品展です。
草月流には「いつでも、どこでも、だれにでも」そして「どんな材料を使っても」いけばなというのは成立する。という思想があるそうです。どんなに美しい花も自然からいただいたもので、いけ手はそれを使って自然の美とはまた違った「人の思い」による美を創造し、人の個性のように植物の表情もさまざまに仕上がる、というものです。そして「花はいければ、人になる」という理念を大切にしているといいます。
「字は体(てい)を表す」という言葉をご存知の方は多いかもしれません。これは書道においての文字に対する心構えや理念であり、「心の姿勢を正しなさい、文字にはその人の人となりがそこに表れる」ということだと、お習字を習っていた頃は常々感じていました。いけばなもまた同じなのではないでしょうか。
いけたお花はその人の性格や持っているものが現れるといいますし、いけた人ご自身も「初めての素材を与えられると、迷いがあったのがそのまま形になる」とも仰っていました。いけばなも表現であり、アートです。「何を表現するのか」は人それぞれであり、完成した作品はその人そのもの、なのです。
今回は草月流の「個性を尊重し自由な表現を求める」の原点に立ち、「型」にとらわれることなく、常に新しく、自由に、いけるその人の個性を映し出すいけばな として展開されました。
今年初めて取り組まれた異質素材については、「常に新しく、自由に、個性を映す」という部分が表現されていたと思います。
こちらは「アララギ」とモールを組み合わせた作品ですが、枯れものの枝の姿に造形的な美しさや面白さを見出し、モールとコラボすることで単にアララギとしてではなく、花器という台座にいけ手が創造した造形作品を組み立てた新しい「形」が生まれています。
草月流の本に
「いけるというのは、字に書いてみれば造形る(いける)、変化る(いける)、
といったことなのだ。
いかに造形たか、いかに変化たか、
ということが問題なので、ここに急所といったようなものがある。
いい花と、いい花瓶があれば、
いいいけばなになるのではない(後略)」
という一文が出てきます。まさにこのことではないでしょうか。
展示室の奥、メインの展示として据えられたのは、フラワーワイヤーとプリザーブドフラワーのアジサイによる造形です。教室生全員での合作で、一人では作れないボリューム感と少しずつ形やサイズが違うワイヤーの立方体が、個々から1個がかたちづくられる面白さを表しています。
また、存在感があるようで無いような、不確実な細いワイヤーによる空間を、アジサイが求心力となってとりまとめています。写真ではわかりづらいですが、どの角度から見てもアジサイに重なるワイヤーはその存在が薄れ、透けて見えるようにアジサイがくっきり浮かびます。虚と実による広がりある空間を造形していて、個人的にはとても面白く不思議な空気感がある作品だったと思います。
回廊で外光を浴びていたのは円筒状のガラス花器にPPバンドを造形して沈めた作品。水を満たすことで透明感が増し、浮いているような沈んでいるような浮遊感の向こうに景色がほんのり感じられ、景観もあわせて一つの作品のように思われます。言われなければ荷物用バンドとは思いませんね。
でも、よく見ていただくと「お花」などの自然物は一切使われていません。それなのに「花」を感じることができるのは空間と素材から感じたインスピレーションが、いけばなにちゃんと繋がっていて、「いける」「魅せる」「創る」ことによる “華” が表現されているからなのかもしれません。
カスミソウを包み、柔らかくユニークな形を添えているのは緩衝材です。白い素材に白い花を組み合わせて、POPな空気を抑えてカスミソウと緩衝材両方の広がりや塊感のコントラストが際立っています。
この作品、緩衝材だけ花器に入っていた時点では正直「何ができるのだろうか」と思っていましたが、疎密のあるカスミソウが入ることで両方が「生かされている」と思います。
曲線と直線が面白い空間を創っているのは紙の卵ケースとプラスチック段ボール、そしてお花はアリストロメリアです。
細く切ったプラダンを「どう使おう」と考えていたところ、偶然折れたことがヒントになったそうです。アリストロメリアの直線的な茎とプラダンの角ばったラインが共鳴するようにリズムを作っています。そこにアリストロメリアの花の曲線や卵ケースの凹凸が別のリズムを加えています。
すくっと伸びる筒の先にはプラスチックをまげて円弧を描くカラーコーンとガーベラ、フェザーグラスです。お花とカラーコーンが絡まるように右へ左へ蛇行しながら動きを出し、その隙間からはみ出すようにかわいい花が顔を出しています。
スマートで静閑な下半分に対し、上部はとても躍動的ではじけるようなエネルギーを放出しています。
真っ白のカラーコーンは花器の白と一体化して、花器が伸びて生き物のように動き出したようにも見えます。歌いだしそうなガーベラの花との組み合わせは、素材とどんな花の組み合わせの重要性を思わせます。
今回のいけばな作品展は、現代アートのような斬新さやわくわく感を感じさせるものでした。
静かに端正にいけられた生花の美しさとは対照的に、作者のイメージしたものがアートになった瞬間を見ることができる異質素材は、一般的ないけばなの先入観を持たずに鑑賞すると「いけばな」がかしこまったものだけでなく、自然とつながりつつ自由に表現する面白さというのを教えてくれているように思われました。
花は美しいけれど、
いけばなが美しいとはかぎらない。
花は、いけたら、花ではなくなるのだ。
いけたら、花は、人になるのだ。
それだから、おもしろいし、むずかしいのだ。
自然にいけようと、
不自然にいけようと、
超自然にいけようと、
花はいけたら、人になるのだ。
花があるから、いけばなができるのだが、
人がなければいけばなはできない。
(中略)
創造のないいけばなはつまらない。
目で見えぬものを、いけよ。
目で見えぬものが、心の中にたくさんある。
花は具象的なものである。
いけばなは抽象的なものである。
草月流 勅使河原蒼風『花伝書』より抜粋