先日、芽ぶきの森周遊路の改装工事が無事終了しました。工事期間中は永谷池周辺のエリアすべてが通行止めとなり、来園者の皆さまにはご不便をお掛けしたことと思います。
今回は「池」についてのお話しです。
池とは?
全国に約21万あるといわれる池。一般的に、湖沼等の用語について厳密に区分することは困難だそうです。少し調べてみると、池の定義として「人工的に築造された貯水施設(水たまり)で湖や沼よりも小さく浅いもの」と考えて良さそうです。更に「小さくても共有、または部落有である」といった公共性も持ち、もともとは灌漑・潤田を目的とした実用の池であったとされています。
平安時代に作られた辞書「倭名類聚鈔」には、
伊介(イケ):即ち生けしむなり。魚をそのうちに養う。地を穿って水を通ずるをいう…
とあり、池(イケ)の語源が魚鳥を養う目的もあったことが記されています。
かつての里において、池(ため池)にコイや雑魚を放流し正月にそれらを食すという習慣があったことが 想起されます。
永谷池について
水景園にとって重要な構成要素を担う「永谷池」。
この池は公園が建設される前から、すでにこの地に存在していました。江戸時代の資料にもその名が残っていることから、かなり以前より利用されてきたことが窺えます。
☝1961年時の公園建設地域。黄色で囲んだ2つの溜池「永谷池」「新池」は現在の公園に、ほぼそのままの形で取り入れられている。
古い資料では「永」谷池ではなく「長」谷池の漢字があてられています。また、永谷池と新池はそれぞれ「上の池」「下の池」とも呼ばれていました。同じ谷間に並んで築かれた池は、上・中・下と順番に名付けられた事例も多く、これら二つの池の関係性によって、かつての農風景が偲ばれます。
池の存在
池泉回遊式の様式をもつ水景園は、文字通り「池」を中心にした日本庭園。上下2段から成るため池を主として庭園が構成されています。
もともと観賞用に造成された池ではないため池は、この土地の地形や風土を代表するシンボルでもあり、 そのため公園全体のコンセプトである「里」のテーマとも融合しています。
☝水景園の大部分を占める池
☝観月橋からの眺め。既存の樹林や池を活かし、これらと調和・一体化した景観を形成している。永谷池(上の池)と下の池との高低差などに地形の変化を感じることができる。
☝紅葉谷:関西の洪積台地に分布するため池の景色を縮小して取り込んだといわれている。上空からみると大部分が水面で占められていることが判る。
☝冬に飛来する渡り鳥。止水域であるため池等の水辺は、野生生物の生育環境でもある。灌漑施設として多用されていた時代には、水位の変動により更に豊かな生態系が存在した。残念ながら、ここ永谷池では灌漑の需要が無くなり水位は年間を通して安定している。
池にまつわる記憶
現代において耕田への灌漑といった需要は次第に少なくなっており、ため池としての機能(存在価値)がほぼ失われた池が全国的にも多いと思われます。ここ永谷池も例外ではありませんが、治水・利水に関する先人達の記憶に触れることができるアイテムが池の周りにいくつか点在しています。
☝池には霊性が宿る?池の脇に据えられた祠。「大正拾貮年拾貮月」の刻印がみえる。灌漑の円滑を祈願したものと考えられる。
☝灌漑用水路が二つの地区へ分かれる地点で水量を配分するための「四分六分石(復元)」
☝大正時代に建立された、煤谷川から水を引く用水隧道の完成記念碑(区画整理事業により移設)
これら石碑や記念碑はかつて治水・利水に腐心し、また業績を残してきた人々の痕跡。池の周りに集まるように残された土地の記憶からは、この国の成り立ちが農業と共にあること、そして水が貴重な存在であることを改めて実感させられます。
池の未来
ある専門書に「奈良時代までの池の存在、すなわち農耕への使命を帯びた大和の池」から「平安時代以降の池の存在、すなわち文学的分野への進出がみられた京都近郊の池」への、人と池との関わりの変遷についての分析がありました。
実用の池 或いは「野の池」としての存在から、景趣を求められる池(庭園)への変貌といったところでしょうか。といっても、平安貴族などは必ずしも庭園の中の池のみを「名池」としたのではなく、都の外にある大池などの景趣や伝説にも重きを置いていたそうです。
これらのことは、元来ため池(実用の池)であった永谷池が、庭園の中の池、歴史的風致を維持する池として生まれ変わることになった推移と似通っています。
さて、これから池はどうなるのでしょうか?
埋められずに残された池、あらたな役割を求められた永谷池に池の「未来」を想像します・・・。
☜次世代に残したい池の存在。将来、池で遊んだことを憶えていてくれるかな?